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韓国での生活、育児、仕事などの日常


by sarahnok23
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カテゴリ:未分類( 10 )

祖母と父のこと。

父からの連絡で、明け方、祖母が息を引き取ったことを知らされた。
享年93歳。老衰とのこと。

祖母が父の血のつながった母親ではないことを知ったのは私が中学生の時。
祖父が亡くなった時に、母が兄弟の中で私にだけこっそりと話してくれた。

田舎町ではあるものの、その町の名家の長男として生まれた父は、生まれた時から父はおばあちゃん子で、その祖母(私には曽祖母)に次期の後継になることを刷り込まれて育ったらしい。家は戦前から金物店を営んでおり、それ以外にも祖父はいくつもの事業に携わっていた。地元の建設会社の社長、私が通っていた保育園の園長(出資者としての名前だけ)、札幌でのホテル経営など様々な事業で手腕を振るわせていたという。 裕福な家庭で育ち、何一つ不自由なく育ち、おばあちゃんに子どもの頃から言われた通り跡を継ぐ物だと思っていた父。しかし、ある出来事がきっかけになり、父は田舎街を飛び出すことになった。

父が18になる年、何かの手続きで戸籍謄本が必要になった。そこで父が目にしたのは、両親であると18年間信じて疑わなかった人が、実は実の親ではないということ。父は、わずか3歳の時に祖父母の養子になったのだ。祖父はこの家での次男で、父は長男の息子だった。実の父親は兵役中に患った病のせいで、30代でこの世を去った。もちろん、父は覚えていない。父には姉もいたけれど、実の母親と姉は、父親が亡くなってからすぐに町を去った。残された父は、スライド式で後継者となった次男である叔父の養子になった。叔父夫妻には子供はなかった。 そういうわけで、昨日亡くなった祖母と父は血のつながった親子ではないいうわけだ。

大学進学をきっかけに、地元をとびだし、東京に出てきた父はそこで母と出会った。兄たちから私まではそこで生まれ、父は安定した職についたのに、大好きだったおばあちゃんの、後継は自分だという言葉が頭から離れなかったという。だから、そろそろ地元に戻って家業を継ぐべきではないかと考え直した父は、意を決して母と幼い子供3人を連れて地元に戻ったのだ。でも、すでに曽祖母はこの世を去っており、父の帰りを歓迎する人はなく、待っていたのは親戚たちからの冷たい目だった。

ビジネスセンスのあった祖父は複数の事業で財を成した。ドラマのようなはなしで、お金のあるところに人は寄ってくるとは言ったもので、祖父の弟たち(父の叔父たち)はその経済力をあてにして、それぞれが住んでいる別の町で同じように金物店を営むための資金をすべて祖父が出した。祖父が亡くなってから、戸籍上、財産贈与を受けるのは祖母と私の父ではあったが、父が養子であるという理由から、その財産をあてにしてきた叔父たちから信じられないようなことを言われたという。地元に戻ってから、父は祖父母の財産など一切あてにしておらず、ただただ賢明に家業に専念した。何かあった時に、経済的な助けを求めにやってくる叔父たちとは違い、父は祖父母の店からの月給で私たちを食べさせてくれていた。それでも、祖父は亡くなる前までは、実の父親ではないにしても、血のつながりはあるからか、祖父は祖父なりの形で私たちと関わってくれた。それは、野球が得意だった兄たちの応援だったり、誕生日は忘れずにいてくれたことだったり。おじいちゃんとしては不器用だったし、世間一般のお爺ちゃんとは程遠い、笑顔をあまり見せない威厳のある人でもあったけど、私は祖父が好きだった。そんの祖父母の誕生日には必ずケーキを焼いて持っていっていた。病が発覚して初めて外泊を許可されて家に戻ってきた時に、筆談で(祖父は咽頭がんだったので話せなくなっていた)元気になって私の焼いたケーキを食べたいと言ってくれたことは今でも忘れない。(大しておいしいケーキでもなかったのに)

話は戻って、祖父が亡くなり、遺産分与の話に親戚たちとなったとき(そもそも、叔父たちがその話に入ってくるのはお門違いではないかと私は今となっては思うのだけど)、父は息子でありながらも、お金のことにはノータッチだったため、祖父の財産については何も知らなかった。一体どのくらいあるのかと祖母に問いかけた時に、そこにいた叔父たちが、父をまるでお金欲しさにその質問をしたかのように問い詰めてきたという。 父はそれ以上何もいわず、この話を終わらせた。それからしばらくして、祖母からとある書類を突然渡され、署名捺印をして提出してくるように言われた。その書類は、財産放棄の書類だった。 ここで、何かが吹っ切れ、もう、ただの従業員と雇主の関係と割り切ることにした父。

それから、数年のうちに叔父たちは次々に病にかかり、亡くなった。血の繋がりのない叔母たちをのぞいて、残されたのは祖母と父のみとなった。そんな頃、高齢になってきた祖母が痴呆症ではないかと疑うようになる。そのきっかけは、80代になってもお店の経理をしていた祖母があり得ないようなミスだらけの書類を商工会議所に提出するようになったこと、痴呆症の典型的な症状である鍋を焦がすことがあったから。父と母は、祖母にまだ判断力があるうちに説得して、店の権限などを法律上の息子である父に変更してもらった。その時、既にかつての財力なんて残っていなくて、店を畳んで解体し、不動産を整理し、後々、祖母を見てもらう介護施設の費用を賄える程度しか残っていなかった。 店を片付けるときには、たくさんの借用書も出てきたという。人の良い祖父は知人にお金を貸したりもしていた。結局、返ってくる事はなかったようなのだけど、父は、借金を残していなかっただけ良かったと今でも笑いながらいう。

父が店の権利の変更を祖母にお願いする際に、どう考えても、祖母を最後までケアできるのは自分しかいない。親戚なんて当てにならないし、当てにする必要もない。そう言って書類にサインをしてもらったらしい。


祖父の残したお店や土地、その他諸々を整理し始め、祖母を札幌の施設に入れ、両親も移住するまでに約5年もかかったという。私は高校を卒業してから親元を離れていたし、両親がその作業をしていた頃は、さらに遠い東京で働いていたから、何も知らなかった。というか、何も知らされなかった。2人の苦労は計り知れなくて、やっと札幌に落ち着いてからは、年金暮らしになり、時々施設にいる祖母の様子を見に行きながら老後を過ごしていた。近くには、一番上の兄や妹もいるから、私は韓国にいても安心していられる。祖母の痴呆症は徐々に進行していき、随分前から面会に行っても、誰の顔も認識できないほどになっていた。そんな祖母の訃報を父からの連絡で知って、私なりにいろんな思いが込み上げてきた。

私にとっては祖母は祖母で、嫌な思いをしたこもないし、家に行けばそれなりに歓迎してくれた。祖父同様、祖母なりの愛情を注いでくれたのではないかと私は思っている。

父にとっては、幼少期から今に至るまでの諸々があるから、私には理解できない部分が多いから、何もいえないけれど、きっと、これで全て終わって肩の荷が降りたと感じていると同時に、これで良かったのだろうかと今も自問自答しているんじゃないかと推測する。

祖母が、財産放棄の書類を父に書かせたのも、きっと、実の子どものいない祖母が叔父たちに言われてそうせざるを得なかったのかもしれない。本当は、父のことを実の息子のように思っていたけれど、昔から感情表現が豊かではない祖母はそれを父に伝えることが最後まで出来なかったのだと私はそう思うし、父にもそうだと思って欲しい。

父が、難しい性格で、私を含めた兄弟たちと度々ぶつかってしまうのも、父の人生で経験してきたことが関係していることは、私もわかっている。変えることはできないし、それが父なのだ。 私は、父とぶつかることを避けながら、当たり障りなく接するようになってしまったけれど、今回の祖母の逝去で、やっぱり、父の寂しさや家族に対する強い憧れ、それをうまく表現できない性分、その全てをしっかり受け止めて、次にあったときには今までの苦労を労う言葉をかけたい。

父の経験してきたことは、私は話で聞いてきただけ。だから、どんなに偏屈な考え方をもった父であっても、それを否定したり私の意見を押し付けることはできないし、したくない。
自分も、常日頃から意識して気をつけていないと、この目で見たり経験していないことなのに、それらに対して否定的になってしまうことがある。それは、人との関わりの中で、されたら一番嫌なことで、そういう人には嫌悪感も覚えてしまうから、やっぱり自分をまずは正すべきなんだろうな。

まだまだ、器の小さい40歳。



おばあちゃん、今までありがとう。
天国でおじいちゃんと会えるかな?
血の繋がりはなかったけど、私にはおばあちゃんは、おばあちゃんでした。


支離滅裂、誤字脱字が多いかも。

by sarahnok23 | 2020-05-14 10:44 | Comments(0)
先日観てきた映画『82年生まれ、キム・ジヨン』 
実は原作は読んでおらず、ネットでレビューを何件かサクッと読んだ程度だった。

主人公は82年生まれの韓国人女性。
結婚後、出産に伴い勤めていた会社を辞め、専業主婦。娘1人。時々、別人が憑依したかのような言動をすることに夫だけが気付づいていながら、妻には本当のことは言えずに、ただ、精神科の受診をそれとなく勧める。
ざっくり、これが出だし。

この映画、物語に大きな波があるわけでもなく、いち韓国人女性の日常を切り取ったような描写が多く、だから尚更、共感できる部分がいたるところに散りばめられている感じだった。この作品(小説、映画ともに)の社会的な影響などについて書かれている記事を多く目にするけれど、私はただただ純粋に、今の自分や身近な人たちのことと照らし合わせながら観ていた。

私は韓国に住んでいる外国人ではあるけれど、結婚した相手が韓国人で韓国に住んでいるからこそ共感できる部分もとても多かった。そんな共感できる映画のシーンと我が家をちょっと比較してみたいと思う。


名節(韓国の旧正月、旧盆)に夫の実家へ行って沢山の料理を準備するのは女性で、実際の儀式(茶礼 チャレ)は男性がする。女性はその様子をキッチンから見ている姿。

私の場合は、夫の祖父母が高齢ではありながら健在であり、義父が男兄弟が多く、祖父母から見た私たち孫世代ではなく、嫁の立場の女性たちが中心になって料理の準備などをしている。私たちや夫の従兄弟のお嫁さんはチャレなどの儀式が終わってから顔を出す程度。家族の事情はさまざまだけれど、うちの場合、祖父母以外は皆、色々な影響を受けキリスト教に改宗しており、そもそも、名節の茶礼という儀式自体、キリスト教としては行わないものなので、あくまでも、祖父母の意向を尊重して行なっている。この件で、本家の叔父と祖父母が揉めたことも昔にあったと夫から聞いたけれど、祖父母が元気なうちは希望通り茶礼を行うようになったという。 そういう訳なので、私たち孫の世代に手伝うことはなく、私の義母も孫である私の娘にこの儀式に参加させる意味がないとして、毎回、茶礼が終わってからに祖父母の家に来るように言われている。

映画に出てくる名節のシーンは、主人公家族とその夫の両親、嫁ぎ先での嫁仕事が終わって実家に顔を出しに来た妹一家のみ。実際は、夫側に男兄弟がいればその家族、義父に男兄弟がいればその家族など、映画に出てくる以上の人数が本家に集まることの方が多いだろう。食事の時間のたびに、女性たちは集まった人数分の食事を用意し、食器を洗い、来客があれば果物を剥いたりするのも大体は全て女性が行なう姿も韓国人ならほとんどの人が見たことがあるんじゃないかと思う。

しかしながら、最近は、義父母の世代にキリスト教、カトリック教も多いため、この名節の茶礼の儀式を行わない家庭も増えているし、自分たちの世代は大変だったからと簡単に済ませて嫁の負担を考慮してくれる家庭も多いと聞く。家庭によっても地域によっても違いがあり、この限りではないけれど、映画のこの名節のシーンは典型的な韓国の嫁仕事の縮小版といった感じに映った。


我が家の場合、映画に出てくるほどではないけれど、義実家に行くとなんとなく、直接言われたことなんてないけれど、私がここで一番身分が低いと感じることがある。 それは、嫁という立場であること、私の場合は外国人であること、今でこそ仕事をしているものの無職だったころは主婦ということ、とにかく、言葉では説明できない自分の立場を義実家にいくと思い知らされ、劣等感を抱いていた。それでも、娘が生まれ、育児に慣れ、その後仕事にも恵まれ、今年は葛藤の末、2人目を授かり何に変えてでも守りたいと思える大切な存在が増えたことで、随分と私自身強くなったと思う。

なんだか、暗くなってしまったけど、この映画では主人公の夫の存在がすごく大きくて、いつも妻の味方でいてくれるので、登場するたびにそのシーンがもどかしくて、でも温かくてジーンとくる(しかも、俳優はコン・ユ!)

外見はコン•ユとは天と地の差ほどだし、不器用極まりないけれど、私の夫もどんなことがあっても、全力で私の味方でいてくれる。そのせいで、夫と義両親がケンカになってしまったこともあったほど(私の不在時)。義母にとっては、大切に育ててきた1人息子が、100%嫁の味方であることを知ってきっと面白くなかっただろうと思う。それでも、何度か衝突していく中で「ああ、この子(息子)はもう自分の守るべき家族を持ったんだな」と少しずつ受け入れてくれているようにも感じる。実際は感謝すべきこともたくさんあるし、心底憎いとかそんなんじゃないから、今よりももっと上手く付き合っていけるようにはなりたい。

主人公のジヨンはその後、義両親(特に義母)と上手く付き合っいるのだろうか。気になるところ。

シデク(義実家)のことについてばかり触れたけれど、実際はそこだけではなくて、社会的にみた女性や母親の立場についても描かれている。だからか、心が痛くなるシーンがいくつもあって私は終始涙腺崩壊状態だった。

いろんな見方があると思うけれど「82年生まれ、キム•ジヨン」見て損はないので機会があればぜひ。

原作も取り寄せて早速読み始めたので、読み終わって何か感じることなどがあればまたここに記録したいと思う。

久々の映画。 産後はまたしばらく行けなくなると思うので、そういう意味でも見に行ってよかった〜。






by sarahnok23 | 2019-11-16 23:22 | Comments(2)
近藤麻理恵さんの片付け術、アメリカでとても有名らしいことを何カ月か前に知った。
面白くて全シーズン一気見して大好きだったアメリカのドラマにも彼女のことがちょっとしたワンシーンにセリフで登場していたのが驚き。

Konmari ってそのまま動詞で使われるほどの浸透っぷり。I konmaried my pantry yesterday こんな風に使えるらしい。

こんまりさんのトキメキはspark joyと訳され、それはそれで、インパクトもあってなかなかステキな響き。 

まだ日本に住んでいた頃、電車の中吊り広告か何かで見て、その場でキンドル版を買って読んだことがあった。当時は、とにかく忙しくて、通勤途中の移動が情報をゆっくり得ることのできる唯一の時間だったので、気になるものはその場で手に入れることを好んでしていた。

さて、その当時読んだこんまり先生の片付け方式についての感想は、私向きではないなと。
トキメクかどうかで手元に残すかを決めるその方式がくすぐったくて、そして、いつもニコニコ、ポジティブの塊のように移るこんまり先生のオーラにちょっと引いてしまっていた。 

もう、今から10年くらい前のことだけれど、ある有名なマルチ商法にハマっている元同僚にそうとは知らずに連れていかれた、ボスねずみのお宅でその会社の製品を使って作った料理を振舞われたことがあった。 料理も美味しく、その道具(製品)もさぞかし質の良いものなんだろうけれど、元同僚が騙すかのようにここへ私を連れて来たことに腹が立っていたので、拒否感以外のなにも湧かず、でも、失礼のないよう、1回目のご招待は考えてみると濁してお暇した。

その時のボスねずみの異常なほどのポジティブさが、その当時、転職活動に行き詰まり、この先に不安しかなった私は引いてしまった。 もしかすると、そんな精神状態だとうまく取り込められてしまう人も多いのかもしれないけれど、私は真逆で、とにかく、目をギラギラさせて、発する言葉全てがポジティ過ぎて気持ち悪かった。

そのトラウマからか、こんまり先生の明るさ、ポジティブな言葉は、あの時のボスねずみを彷彿させたのかもしれない。 

人間、ちょっとくらい、影があったり、ブラックな感情があった方が、厚みがあって、親しみやすいと思うのは私だけだろうか。 もちろん、6:4くらい、いや、7:3くらいで、ポジティブな比率が多い方がいいとは思うけど、全力でポジティブだと、この人本当に人の悩みとか分かってるの?と疑いたくなる。

さておき、こんまり先生の第一印象はあまり良いものではなかったけれど、少し心の余裕ができた今は、こんまり方式で家の中をすっきりさせて見ようという気持ちになった。

そんなわけで、昨夜、思い立って私の服から実行。

韓国へ来て、娘が産まれてから、所有していた半分くらいの衣類を処分した。

それでも、増えて、行き場がなくなり、クローゼットもタンスも詰め込み過ぎて、表面の服しか着なくなっていた。

結局着ている服は、今、快適だと思うものを着まわしているだけ。 

リビングに一杯になった服を1つずつ吟味して分けていく。そこに、トキメキがあるから別として、私が勝手に基準を決めて選択

●サイズが合うかどうか
●傷んでいないか
●それを着て出かけられるか
●気分が上がるかどうか 

あれ?けっきょく、最後の項目がトキメキっていうことで、他はトキメキのための条件なのかも!?  こんまり先生に一本取られた感あり 笑

おかげで、長年、高価で気に入っていたから手放せなかったものも、今の自分にはしっくりこないから、以下の分類で処分することに。

●貰い手がなく、リサイクルでも引き取ってもらえなさそうなもの → マンションにあるリサイクル回収ボックスへ
●コート、ジャケットなど質の悪くないもの 
→ アルムタウンカゲ (韓国のリサイクルショップ。買取制度なし。引き取りは無償、年末調整の時にカウントされる)
●ユニクロ  店舗のリサイクルボックスへ

●サイズと好みが変わっただけで、大切だったもの
→ 私よりスリムで、身長はあまり変わらない妹に写真を送り選んでもらい、次の帰国時に持って行くことに。


そんな感じで、ゴミ箱行きは取り敢えずなく、エコに処分できた。


結果、私のワードローブはタンス三段分と、ハンガーラック1つ分くらいの量まで縮小された。最初から、分類対象にしていなかった、現役のコートやダウンは別として。



次は、娘の衣類。これが、なかなか大変になりそうな予感。

もうサイズアウトしているけれど、すごく可愛くて、もしかしたら2人目の時に、なんて思うものの、2人目の予定は今のところ未定で、仮にあったとしても女の子とは限らない。そんなこんなしていると、私の服よりはるかに多くなってしまった、ベビー服たち。 さて、どうしようかな。






by sarahnok23 | 2019-02-24 01:26 | Comments(2)

結婚と料理

韓国生活において、約5年前にこちらへ来た当初、とても不便だなと思っていたこと。それは、独身、一人暮らし、会社勤めをしていた私にはなくてはならないものだった便利な日本のインスタントやレトルト、冷凍食品、そしてコンビニの美味しいお弁当など、 食に関する部分の便利さが韓国へ来たと同時になくなったこと。

つい数日前まで日本でひとり悠々と暮らしていたわたしが、飛行機で2時間ほどの韓国に降り立った瞬間に肩書きが主婦に変わった。 さっそく、韓国のスーパーに行き、食材や日用品の買い出しに出かけたときの印象は、物価が高すぎること。 確かに、量が日本と比べて多いので、一品目あたりの価格は高くなるのだけれど、それを考慮しても高いと感じるほどだった。おまけに、便利で安いイメージだった便利なレトルト関連もあるにはあるが、種類も少なく、オマケに割高で、特別美味しそうにも見えないものばかりだった。

一度、日本のメーカーのカレールウを発見し、かなり割高ではあったけれど、カレーが大好きな私は思い切って購入(確か、一箱500円近い値段だった) しかし、作ってみると、日本で買うカレールウと色味も違い、味もイマイチ。パッケージは完全に輸出用で英語で書かれているものに、ハングルで書かれたの成分表示をシールでその上から貼っていた。 

これから、韓国での食をどうしたものかと真剣に悩んだスタートとなったのだ。

5年近く経ったいま、食はどうしているかというと、相変わらず料理は苦手、というよりも嫌い。でも、娘もいるし、家族の食を考えると、なんとか作るしかない。レパートリーもそれほど増えないけれど、明らかに変わった点といえば、日本では簡単に作れるレトルト系のものに頼っていたけれど、どうしても食べたくて、でも手に入らないものは、自分で一から作るようになった。

例えば、麻婆豆腐。日本では、水と豆腐さえ準備すれば簡単に作れたけれど、こちらでは、豆板醤などを使って最初から手作り。 

パスタもミートソースはトマトから作る。

料理が好きな人ならきっと当たり前のことを韓国に来てからするようになった。

それでも相変わらず料理は好きではない。


東京時代の会社の後輩に昨年末に久々に会ったときの言葉が印象的だった。

私は結婚して子どももいるけど料理が嫌いでできればしたくないと言った。

「結婚したら料理を好きにならなきゃいけないのかなって思っていたんですけど、オンニ(彼女は私のことをそう呼ぶ)のその言葉聞いて少し安心しました」

私を模範にする必要もないし、敢えて料理を放棄するのも健康を考えるとあまりよろしくないけれど、結婚したらこうあるべきという世間一般の、ひと昔前の、枠にはまらなくても良いのだと、その後輩は安心した様子だった。

結婚したからと言って、自分を無理に帰る必要はなくて、自然と変化して行くのが理想だと私は思う。結婚に限らず、人に変化を押し付けられるのと、自分から必要に応じて変わって行くのとでは、結果が同じであっても気持ちが違う。


そんな韓国生活5年目。

もう少し料理を好きになれると本当は良いのだけど。

夫が料理に興味を持ち始め、色々作ることが趣味になって来ているので、やっぱり私は今のままで無理しないことにした。





by sarahnok23 | 2019-02-21 09:08 | Comments(0)

雪の日

今年の韓国は去年に比べると暖かい。

寒波が来るとマイナス20度近い気温になり、水道管の破裂や凍結の被害が増える。この気温は北国出身の私もあまり体感したことがなく、おまけに雪がほとんど降らない乾燥した冬は本当に寒い。昨年はそんな日が2月の半分くらいを占めたほど寒かったのだ。

そんな今年は、年末に一度寒波で寒くなった程度で、年明けからは耐えられる寒さ程度で過ごせている。 おそらくこのまま、少しずつ春が来るのではないかと。


今日は雪。

水を多く含んだ雪なので、べちゃっとしていて、地面も溶けかかったかき氷のよう。 娘はまだ3歳なので、雪1つとっても新鮮で楽しくうつるらしく、保育園への道のり5分のところ、何倍もの時間をかけて到着。それを見越して家を出たものの、雪は嫌いな私には苦痛でしかなかった。唯一、娘の楽しんでいる姿をみて我慢できていた。 

雪国で育った私は、本当に嫌という程に雪と関わってきたので、降らないに越したことはないと思っている。そんなんだから、転職と同時に首都圏へ移り住んでからは、雪に悩まされることはほとんどなく、真冬でもスニーカーやパンプスを履くことのできる気候を心から楽しんだ。韓国の冬も、寒い北国の雪に比べれば、冬の期間も随分と短く、耐えられるものではあるが、大気汚染はここ数年深刻で、この地にこのまま住み続けるか否かを考えさせる要因にははっている。

とはいえ、雪の日は空気が清としていて、どこか懐かしい気持ちになるのは、幼少期を雪国で過ごしてきたからなんだとおもった。



by sarahnok23 | 2019-02-19 05:40 | Comments(0)
どうしても外国にいると、日本にいた頃の自分と同じように動けなくてもどかしいことがある。

その1つが、職の選択肢だと思う。
専門職でなければ、ある程度の機会はあるけれど、育児をしていて、韓国語にも不自由があれば、当然のことなのかもしれない。

そういった中でも、外国人として(日本人として)活かせることとして一番に思いつくのは、日本語を教える仕事。

そして、日本人向けの子どもの教育関連。

実は私もその2つに興味を持ったことがあったのだけれど、5年間の韓国生活で経験してみて、それは自分には向いていないことに気がついた。

まずは、日本語教師。

機会があって、知り合いの方からの紹介で、日本就職へ向けての面接の練習と履歴書のチェック、そしてフリートーキングの家庭教師をしたことがあった。
生徒さんは、別で学校に通いながら、日本語と専門的な分野の勉強もしていたようで、かなり努力をしていたし、それを応援しながら日本語をサポートするのもそれなりにやり甲斐もあった。

しかしながら、私が今まで経験してきた業界とは全く異なり、ある程度自分主体で物事を進められる仕事とは異なり、生徒さんのレベルや意向に沿うことを求められ、どんなに頑張っても、相性だったり、実際に勉強している本人のやる気によって結果が左右されることが大きくて、自分のやりがいにあまり繋がらなかった。もちろん、これはあくまでも私の個人的な考え方だけれど。
私は、人に教えるより、自分が学ぶ立場でそれを生かして成長させたいタイプの人間らしいことに気づいた。
韓国で外国語の先生はなかなか割りのいいアルバイトで、この個人レッスンも経験ゼロの私には破格の報酬だった。
でも、もうやらないと思う。

そして、子どもの教育。
ここには、子どもの日本語教育も含まれている。
娘の成長とともに、日本語や韓国語、その他の教育ひ関心が高くなったので、これを専門に勉強することも面白いのではないかと思ったことがあった。低月齢の頃から、ベビーマッサージやら五感を刺激するレッスンに通ったりもしたのは、娘のためでもあり、私の気晴らしのためでもあった。 やはり、娘が反応して喜んだり、成長して行く過程は興味深くて面白いものがあった。 しかしながら、成長して行く過程で、興味がなくなったものがある。それは、今の娘より小さい子のための教育だ。 つまり、私が興味を持っていたのは、用事の教育全般ではなくて、今の娘、完全に親としての目線での教育だったのだ。 冷たい言い方をしてしまうと、自分の子以外の教育には興味がないということ。

結局、この2つを軽く経験してみて気づいたことは、自分に先生という仕事は向いていない、いや、好きではないということだった。

そう言えば、会社でも、OJTなんかで教えてもらうのは良くても、教える立場になるとなんだかやりにくかった記憶がある。



韓国でやりたいことを見つける旅にまた出かけなくてはならないようだ。

by sarahnok23 | 2019-02-01 07:08 | Comments(0)

韓国語のレベル

韓国生活もこの春で丸5年となる。

夫との付き合いも10年。長いような短いような。

5年間で私の韓国語はどの程度か。
試験を受けたことがないので、具体的なレベルは分からないけれど、会話は日常生活を送るのには問題ない(発音や文法的なは間違いだらけだと思うけど、コミニュケーションは取れている感じ)。聞き取りは、話すことよりは出来ると思うけれど、話しての癖によってはほとんど聞き取れなかったり、かなり早口な方でも聞き取れたり。 ニュースは漢字語が多くなるので、日本人の私には若者の話し言葉より理解しやすいこともある。
問題は書きとり。

私の今の韓国語は最初の1年間で勉強したレベルを維持しているだけで、残りの4年間では大して伸びていない自覚している。 出産や育児で新しい実践的な単語や言い回しを覚えたとしても、同じくらい、いやそれ以上に学校で習って覚えたそれを忘れているから。

そして、残念なことに、韓国語をもっと勉強したい意欲が全く湧かなくなっているのも現実。

私が韓国で生活をしてきて、日本人だからと言って嫌な思いをしたことは記憶する限りない。日韓関係が最近よくないとはいっても、個人レベルまでは及ばない。ただ1人除いて。

義母は日本のことをもともと好いていないことは何となく感じていて、はっきり言われたことはないけれど、会話で時々、日本の何かを否定することがある。 波風立てたくないので、反応すらしないようにしているけれど、気分は良くないのが本心。

夫の次に一番身近な他人から唯一感じる日本否定。 今後どう付き合っていこうか本気で悩む。
だから、韓国語を学ぶ意欲が失せるのである。

とは言ってられないので、仕事のためにも今年は少し前向きに勉強しようと思う。

by sarahnok23 | 2019-01-31 09:48 | Comments(0)

主婦のタスク管理

昨年の冬の始まりくらいから、1日にやるべきことを箇条で書き出して見ているのだけど、今日まで続いている。

所謂、タスク管理。

私はほぼ専業主婦で、娘が保育園へ行っている日中は5時間ほどパソコンに向かって在宅で仕事をしている。日本で勤めていた会社の仕事を業務委託という形でやらせてもらっているので、主に仕事の進め方と娘が保育園へ行っている間にする家事や雑務についてを時系列でホワイトボードに書いているだけなのだけれど、これが意外にも効果的。 

若さだったのか、昔は、出勤して朝のうちにある程度、その日の仕事量を把握して、それを頭の中で整理しながら進められていたのだけど、最近は気がつくとあれもこれもと手を付け、時間があっという間に過ぎてしまうことも度々。 確実にスピードと処理能力が落ちたなと実感していた。

書き出すことで、1つ1つこなして行く感覚が心地よくて、そこから生まれるスピード感も、現役の頃の自分を思い出させてくれて、正直、単調な仕事ではあるけれど、メリハリがついたので以前よりも取り組む姿勢は前向きになったかな。

育児、仕事、家事、会社に勤めながらだと1日の忙しさは、私のそれとは比べものにならないだろうなと思う。でも、その世界に足を踏み入れたい気持ちもあるから、いつその日が来てもいいように、せめて、スピードにはついていけるようにしたい。

ということで、タスク管理方法、自分の記憶力を過信せず、確実にものごとを進めて行くのにおススメです。 

by sarahnok23 | 2019-01-30 06:14 | Comments(0)
日本からかつての職場の先輩が遊びに来てくれた。
フットワークが軽く、1人で色々楽しめる人なので、韓国のみならず、国内外問わず旅行へ行っている。旅慣れていて、知識も豊富、自分よりも8つ年上ではあるけれど、友達のように接してくれるので、私も気兼ねいらずで、いつ会っても笑いが絶えず楽しい。そんな友人がいて、こうして毎年、多ければ年2回も会いに来てくれることがすごく嬉しい。

彼のマメさのおかげで、こうして日本を離れてからも付き合っていけるのだと思うけれど、人と人との縁を大切にできる人って尊敬できる。自分もそうでありたいのに、忙しさなどを理由に、連絡を疎かにしていたら、連絡し難くなっていたり。連絡先がわからなくなっていたり、そんなことも今までもあったから、できる限り会いたい人には会いに行きたいと思う。

韓国にいると、一見韓国の日本人コミュニティの狭さに息苦しさを覚えそうになることもあるのだけど、それは、気の持ちよう、付き合い方であって、日本にいても同じことだと分かってきた。 言葉が通じる人の数が違うだけで、結局のところ、私の行動範囲はどこにいても実際は変わらないことも最近分かってきた。そう考えると随分と楽で、せめてプライベートでは無理せず、気負わずに友人関係を気づいていくことが自分のためなんだと思った。



先輩はいつもたくさんのお土産を持ってきてくれる。





by sarahnok23 | 2019-01-28 15:56 | Comments(0)

はじめます

ブログサイトをいくつか試してやっぱりここに戻ってきました。

私にはSNS要素の濃いア○ーバより、書きたいことをひっそりと書けそうなこちらの方が向いているようです。

不特定多数の人の目に触れる可能性があるのがブログではあるけれど、自分の気持ちや日々の出来事を気ままに綴って行こうと思います。

by sarahnok23 | 2019-01-25 18:41 | Comments(0)