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韓国での生活、育児、仕事などの日常


by sarahnok23
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最近ちょっとうんざりしてきたこと。

夫の両親と会う機会が、次女が生まれてから以前より増えた。孫に会いたいとか、私が料理をあまりしなくても良いように食べ物を持ってきてくれるとか、会う理由はどうでもよくて、会うこと自体も別にそれほど負担でもないのだけど、会うたびに政治や時事問題(最近はもっぱらコロナウィルス関連)の話になるからうんざり。そのウンザリポイントの一つが声の大きさと会話のキャッチボールが出来ていない主張のぶつけ合い。どうしても、ヒートアップすると声が大きくなるのは理解出来る。理解できるけど、うちにはまだ赤ちゃんも含め子どもがいる上に、我が家は広い家でもないので、その大きな声が何処にいても聞こえてくる。そして、ヒートアップすると、お互いの話に耳を傾けながら主張するというよりは、皆、声が被りまくっていて、夫も義両親も3人同時に話していることが頻繁にある。しかも、なぜか、会話に加わっていない私に聞いてくれと言わんばかりにこちらを向いて話してくるので、いったい私は誰の話を聞いたら良いのか分からない状況に陥ることも度々あって、最近は騒がしくなり始めたら、次女の寝かしつけや授乳を理由に寝室へ退避する事にしている。

会話をしている相手に声を被せ、さらには被せられた人もそのまま話し続けるシチュエーションに遭遇することって、日本ではあまり経験したことがなくて、正直はじめは面食らって何がなんだか分からず、その場で一番目上の人の話を聞くべきか、最初に話していた人の話を聞くべきか瞬時に判断できず随分とあたふたした。
韓国の人は自己主張が上手で、相手を納得させるべく弁が立つ人が多いように思う。日本よりも(少なくともわたしの学生時代には)人前で話したり、討論することを学生時代から訓練してきていることと、察する文化の日本とは異なることなどが背景にあるのかなと推測する。

相手の主張を尊重しながら自分の考えを論することと、相手の主張を否定して自分の主張が正しいと納得させることとでは、そもそもコミュニケーションの取り方が変わってくる。話題が政治や経済の話になると後者のようになりがちで、結局、どんなにお互い論じたところで、じゃあ私もあなたの考え方に賛成です、なんてこのにはならないのだから、特に、家族が集まって楽しむ場では、政治や経済の話は避けるべきだと私は夫も義両親に言いたい。話したい人たちだけ集まっている場で思う存分に討論すればいい。少なくとも我が家では、私と娘たちは聞きたいとも思っていないから、やめて欲しい。

せっかく、おじいちゃん、おばあちゃんに会えても、その2人(プラス夫)がヒートアップしていると、娘がどんなに声をかけても聞こえていないから、無視しているような状況に落ち入り、娘が泣き出すこともあった。

祖父母も最近はコロナウィルスのせいで、人と会う機会が減っているせいか、おそらく、この手の話をする相手が息子である夫くらいしかいないのだと思う。だから仕方ないのかなと理解してあげるべきなのだろうか。

それでも、やっぱり私はウンザリしているから、最近はこの手の話になって、興奮してきたら、そっとその場を離れる事にしている。

次回は娘たちと3人で外に出てみようかな。
そうしたら、ヒートアップした御三方はちょっとは反省してくれるだろうか。
少なくとも、子どもたちの前ではやめて欲しいので、その声が届きますように。

いや、これは「察してください」の日本人的な考えで、はっきりと、政治経済の話をしてもいいけど、興奮する前にやめてください。子どもたちがみてますよ、と伝えた方が良いのかもしれない。




# by sarahnok23 | 2020-05-25 11:19 | ★つぶやき★ | Comments(0)
コロナウィルスが大流行して、人との接触や外出、行動範囲など、人々の意識に大きな変化をこの短期間にもたらしたことはここで語るまでもない。私はもともと在宅勤務だったうえに、出産の1ヶ月前から今日までずっと休んでいるので、行動範囲にそれほど大きな変化はないけれど、それでも、友人に会うことを控えているし、人の集まる場所など、いわゆる三密は避けるように気をつけている。

ここ韓国で、かつ私の身の回りに限った話ではあるのだけど、皆、基本的な予防対策はしつつも、その家庭によって考え方の違いが最近見えてきて、その中でどのように自分はあるべきかちょっと考えさせられている。

韓国では私の出産直前に感染者が出てから爆発的に感染者数が増えるまでそうそう時間がかからなかった。私は、その間、産後調理院に入っていたり、産後ヘルパーが家に来ていたのもあり、家にいることが当たり前だったため、肌でその緊迫感を感じることはあまりなかったが、韓国国内はその時期が一番コロナウィルスに敏感になっていたように思う。幼稚園のママたちとのグループトークでも、毎日感染者についてや幼稚園の対策などについて頻繁に情報が飛び交っていた。

2月後半に修了式を終え(韓国は2月が年度末で3月から新学期)、3月の頭から新学期が始まる予定が、やっぱりか、と言った感じで、新学期スタートは延期となった。それでも、日中に子供を見ることが難しい家庭のために、緊急保育などで、通わせることができる保育園、幼稚園は多かったんじゃないかと思う。娘も、産後ヘルパーがきている間は幼稚園に行ってもらい、いよいよ本格的に2人育児が始まった当初も、私が慣れるまで通わせていた。それでも、世の中の状況が深刻化していくにつれて、娘をこれ以上幼稚園に通わせることに罪悪感と不安が同時に襲ってきた。私も共働きとして幼稚園に登録しているので、娘を通わせることはできるけれど、もしも、そこで娘が感染したり、または無症状で誰かを感染させてしまったり、などと言った事態になったら、きっと後悔するだろうと思うようになり、特別なことがない限り、幼稚園には行かずに家で過ごすことにした。それが、現在も続いており、一日中娘が家にいること、赤ちゃんと2人を見ることにも慣れてきている自分がいる。

それが、現在の我が家の状況。
幼稚園は4月20日にスタートする予定が、例の梨泰院のクラブから発生した感染者の件でまた延期となった。今のところ、1週間遅れ程度ではあるけれど、今後どうなるかは分からない。

我が家は登園を自粛している状況ではあるけれど、共働きではなくても、子どもを幼稚園に通わせ続けている保護者もいれば(途中から、共働きとして登録していなくても、希望者は緊急保育で登園可能となった)、幼稚園を辞めてしまった子もいる。私のように、不定期に必要に応じて行っている子もいるし、やっと感染者が落ち着いてきたからと5月から再び通い始めた子もいる(結局、連休中に梨泰院の件)。幼稚園の利用についてもこのように保護者によって違いがあるように、日常生活でもやっぱりその考え方は様々なのだ。というのも、4月後半、韓国での感染者数が激減して、学校の再開も決まった頃、保育園の頃から付き合いのあるママたち1人が、春になったからどこか遊びに行こうと提案してきた。その時は、平日に皆で大きな公園へ行った。屋外だし、平日の人が少ない時間帯なので、次女がまだ2ヶ月だということを除いてはあまり不安要素はなかった。

それから、最近では、会社員のママがその日はいつも息子を見てくれている同居のおばあちゃんが健康診断で家にいないため、休みをとって子どもを見る必要があるから、みんなでどこかに行こうとの提案。最初はエバーランドやソウルランドといった屋外の施設の話が出ていたが、結局、親が大変だということでキッズカフェなんてどうだろうと。てっきり、近所にいくつかあるうちの一つに行くものだと思っていたら、車で1時間弱かかるところにあるキッズカフェとのことだった。すでに、梨泰院の件が騒がしくなってきた頃で、施設の消毒がしっかりされていて、平日で人が少ないとはいえ、キッズカフェは広くても密閉された場所なので、私は次女がまだ3ヶ月で幼く、車に乗ることも慣れていない理由で遠慮することにした。すると、それなら近場のキッズカフェにしようという話になってしまった。

この時期は、誘う方も誘われる方も、相手に配慮する必要があると自らのこの出来事で学んだ。
例えば、私がこの誘いを、「コロナウィルスが心配なので私は行かない」と言ってしまえば、じゃあ、誘ってくれたママや一緒に行くことにしたママは自分は不謹慎な行動をとっていると言われているととってしまうかもしれない。どこまでが安全で、どこまでがそうじゃないかは、正直誰にも分からない、。相手は見えないウィルスなのだから。だから、私も含めてこのママたちが基本的なマスク着用や人との距離を保ったとしても、キッズカフェに行くことをよしとするか否かのように、人によって考え方が違うということを理解する必要があると思った。

結局次女がまだ3ヶ月と小さいという理由で今回は遠慮した。

幼稚園やオリニチプをこの時期に通わせ続けることを不謹慎と思うかどうかも、人それぞれ。
キッズカフェに行くことを良しとするか否かも人それぞれ。
友人を誘い合わせて出掛けて、もしも万が一誰かが感染するなんていう事態が起きたら、その話を最初に持ちかけた人が責任を感じてしまうだろうし、その人を責め立てる人が出てくるかもしれない。

私は、たとえ誰かに勧められたり、誘われたとしても、自分で判断して決めたことの責任は自分にあるから、心に引っ掛かりがあるまま流されて決断しないよう気をつけている。(自然災害など不可抗力は除く) 今回のことは、まさにそれで、心では行くべきではないと自分の気持ちは分かっているのに、断りにくいシチュエーションのまま自分もキッズカフェに行く方向に流され、結局は、行き先を配慮してもらったのにも関わらず、ギリギリのところで断るという失礼な対応をとってしまった。

そんな出来事があって、ふと、思い出したのが、半月ほど前に、近くに住む日本人の友人とのやりとりで、私が、散歩や子どもを連れて公園に行くことがあれば合流して子供達を遊ばせようという話をしたこと。 私としては、屋外で平日の午前中という人の少ない時間帯だから、あまり深く考えずにその友人に誘いを投げかけた。結局、友人の小学生の息子のオンライン授業も始まって会えずにいたのだけど、今回の韓国人のママがキッズカフェに行く話を提案した時のように、私も友人に断りたいのに断りにくい誘いを持ちかけてしまったのではないかと不安になった。

すぐに、友人に何気ない話題でテキストを送り、そういえば、という流れで、先日の誘いは気にせず、安心して遊べるようになったら一緒に遊ぼうとつたえた。その事情を伝えると、友人は特に断りにくいとかそんなことは全く思っておらず、単に、その日によって行動する時間帯が異なるから時間を合わせられずにいただけだと笑いながら言った。行きたくなかったら、ちゃんと断るから大丈夫よと。単なる私の思い過ごしではあったけど、コロナウィルに対する不安は皆同じでも、人によって自粛の程度に差があるから、そこはしっかりと配慮していきたい。

話してみると、誘われたけれど断ることも、何気に誘ってしまったことも、相手はそれほど気にしていないかもしれない。私は、どうしても、自分の言動に対して相手がどう思っているのか必要以上に気になってしまったり、相手の言動を細かくいちいち気にしてしまい、今回のようなことに陥ることが良くある。夫は、ウジウジと悩んでる私とは対照的な性分なので、何でそんなに悩むのか不思議だという。もうこれは、私の性格なので、相手を配慮しながらも、自分のストレスにならないよう上手く付き合っていくしかないんだと思う。


というわけで、また韓国のママたちとはどこかへ行こうという話になるかもしれないので、その時は、はっきりと、でも配慮しつつ自分の意思をしっかりと伝たい。



# by sarahnok23 | 2020-05-16 00:06 | ★つぶやき★ | Comments(0)

祖母と父のこと。

父からの連絡で、明け方、祖母が息を引き取ったことを知らされた。
享年93歳。老衰とのこと。

祖母が父の血のつながった母親ではないことを知ったのは私が中学生の時。
祖父が亡くなった時に、母が兄弟の中で私にだけこっそりと話してくれた。

田舎町ではあるものの、その町の名家の長男として生まれた父は、生まれた時から父はおばあちゃん子で、その祖母(私には曽祖母)に次期の後継になることを刷り込まれて育ったらしい。家は戦前から金物店を営んでおり、それ以外にも祖父はいくつもの事業に携わっていた。地元の建設会社の社長、私が通っていた保育園の園長(出資者としての名前だけ)、札幌でのホテル経営など様々な事業で手腕を振るわせていたという。 裕福な家庭で育ち、何一つ不自由なく育ち、おばあちゃんに子どもの頃から言われた通り跡を継ぐ物だと思っていた父。しかし、ある出来事がきっかけになり、父は田舎街を飛び出すことになった。

父が18になる年、何かの手続きで戸籍謄本が必要になった。そこで父が目にしたのは、両親であると18年間信じて疑わなかった人が、実は実の親ではないということ。父は、わずか3歳の時に祖父母の養子になったのだ。祖父はこの家での次男で、父は長男の息子だった。実の父親は兵役中に患った病のせいで、30代でこの世を去った。もちろん、父は覚えていない。父には姉もいたけれど、実の母親と姉は、父親が亡くなってからすぐに町を去った。残された父は、スライド式で後継者となった次男である叔父の養子になった。叔父夫妻には子供はなかった。 そういうわけで、昨日亡くなった祖母と父は血のつながった親子ではないいうわけだ。

大学進学をきっかけに、地元をとびだし、東京に出てきた父はそこで母と出会った。兄たちから私まではそこで生まれ、父は安定した職についたのに、大好きだったおばあちゃんの、後継は自分だという言葉が頭から離れなかったという。だから、そろそろ地元に戻って家業を継ぐべきではないかと考え直した父は、意を決して母と幼い子供3人を連れて地元に戻ったのだ。でも、すでに曽祖母はこの世を去っており、父の帰りを歓迎する人はなく、待っていたのは親戚たちからの冷たい目だった。

ビジネスセンスのあった祖父は複数の事業で財を成した。ドラマのようなはなしで、お金のあるところに人は寄ってくるとは言ったもので、祖父の弟たち(父の叔父たち)はその経済力をあてにして、それぞれが住んでいる別の町で同じように金物店を営むための資金をすべて祖父が出した。祖父が亡くなってから、戸籍上、財産贈与を受けるのは祖母と私の父ではあったが、父が養子であるという理由から、その財産をあてにしてきた叔父たちから信じられないようなことを言われたという。地元に戻ってから、父は祖父母の財産など一切あてにしておらず、ただただ賢明に家業に専念した。何かあった時に、経済的な助けを求めにやってくる叔父たちとは違い、父は祖父母の店からの月給で私たちを食べさせてくれていた。それでも、祖父は亡くなる前までは、実の父親ではないにしても、血のつながりはあるからか、祖父は祖父なりの形で私たちと関わってくれた。それは、野球が得意だった兄たちの応援だったり、誕生日は忘れずにいてくれたことだったり。おじいちゃんとしては不器用だったし、世間一般のお爺ちゃんとは程遠い、笑顔をあまり見せない威厳のある人でもあったけど、私は祖父が好きだった。そんの祖父母の誕生日には必ずケーキを焼いて持っていっていた。病が発覚して初めて外泊を許可されて家に戻ってきた時に、筆談で(祖父は咽頭がんだったので話せなくなっていた)元気になって私の焼いたケーキを食べたいと言ってくれたことは今でも忘れない。(大しておいしいケーキでもなかったのに)

話は戻って、祖父が亡くなり、遺産分与の話に親戚たちとなったとき(そもそも、叔父たちがその話に入ってくるのはお門違いではないかと私は今となっては思うのだけど)、父は息子でありながらも、お金のことにはノータッチだったため、祖父の財産については何も知らなかった。一体どのくらいあるのかと祖母に問いかけた時に、そこにいた叔父たちが、父をまるでお金欲しさにその質問をしたかのように問い詰めてきたという。 父はそれ以上何もいわず、この話を終わらせた。それからしばらくして、祖母からとある書類を突然渡され、署名捺印をして提出してくるように言われた。その書類は、財産放棄の書類だった。 ここで、何かが吹っ切れ、もう、ただの従業員と雇主の関係と割り切ることにした父。

それから、数年のうちに叔父たちは次々に病にかかり、亡くなった。血の繋がりのない叔母たちをのぞいて、残されたのは祖母と父のみとなった。そんな頃、高齢になってきた祖母が痴呆症ではないかと疑うようになる。そのきっかけは、80代になってもお店の経理をしていた祖母があり得ないようなミスだらけの書類を商工会議所に提出するようになったこと、痴呆症の典型的な症状である鍋を焦がすことがあったから。父と母は、祖母にまだ判断力があるうちに説得して、店の権限などを法律上の息子である父に変更してもらった。その時、既にかつての財力なんて残っていなくて、店を畳んで解体し、不動産を整理し、後々、祖母を見てもらう介護施設の費用を賄える程度しか残っていなかった。 店を片付けるときには、たくさんの借用書も出てきたという。人の良い祖父は知人にお金を貸したりもしていた。結局、返ってくる事はなかったようなのだけど、父は、借金を残していなかっただけ良かったと今でも笑いながらいう。

父が店の権利の変更を祖母にお願いする際に、どう考えても、祖母を最後までケアできるのは自分しかいない。親戚なんて当てにならないし、当てにする必要もない。そう言って書類にサインをしてもらったらしい。


祖父の残したお店や土地、その他諸々を整理し始め、祖母を札幌の施設に入れ、両親も移住するまでに約5年もかかったという。私は高校を卒業してから親元を離れていたし、両親がその作業をしていた頃は、さらに遠い東京で働いていたから、何も知らなかった。というか、何も知らされなかった。2人の苦労は計り知れなくて、やっと札幌に落ち着いてからは、年金暮らしになり、時々施設にいる祖母の様子を見に行きながら老後を過ごしていた。近くには、一番上の兄や妹もいるから、私は韓国にいても安心していられる。祖母の痴呆症は徐々に進行していき、随分前から面会に行っても、誰の顔も認識できないほどになっていた。そんな祖母の訃報を父からの連絡で知って、私なりにいろんな思いが込み上げてきた。

私にとっては祖母は祖母で、嫌な思いをしたこもないし、家に行けばそれなりに歓迎してくれた。祖父同様、祖母なりの愛情を注いでくれたのではないかと私は思っている。

父にとっては、幼少期から今に至るまでの諸々があるから、私には理解できない部分が多いから、何もいえないけれど、きっと、これで全て終わって肩の荷が降りたと感じていると同時に、これで良かったのだろうかと今も自問自答しているんじゃないかと推測する。

祖母が、財産放棄の書類を父に書かせたのも、きっと、実の子どものいない祖母が叔父たちに言われてそうせざるを得なかったのかもしれない。本当は、父のことを実の息子のように思っていたけれど、昔から感情表現が豊かではない祖母はそれを父に伝えることが最後まで出来なかったのだと私はそう思うし、父にもそうだと思って欲しい。

父が、難しい性格で、私を含めた兄弟たちと度々ぶつかってしまうのも、父の人生で経験してきたことが関係していることは、私もわかっている。変えることはできないし、それが父なのだ。 私は、父とぶつかることを避けながら、当たり障りなく接するようになってしまったけれど、今回の祖母の逝去で、やっぱり、父の寂しさや家族に対する強い憧れ、それをうまく表現できない性分、その全てをしっかり受け止めて、次にあったときには今までの苦労を労う言葉をかけたい。

父の経験してきたことは、私は話で聞いてきただけ。だから、どんなに偏屈な考え方をもった父であっても、それを否定したり私の意見を押し付けることはできないし、したくない。
自分も、常日頃から意識して気をつけていないと、この目で見たり経験していないことなのに、それらに対して否定的になってしまうことがある。それは、人との関わりの中で、されたら一番嫌なことで、そういう人には嫌悪感も覚えてしまうから、やっぱり自分をまずは正すべきなんだろうな。

まだまだ、器の小さい40歳。



おばあちゃん、今までありがとう。
天国でおじいちゃんと会えるかな?
血の繋がりはなかったけど、私にはおばあちゃんは、おばあちゃんでした。


支離滅裂、誤字脱字が多いかも。

# by sarahnok23 | 2020-05-14 10:44 | Comments(0)
相変わらず、家にいることも多く子どもたちと一緒に過ごす時間が長いので、自分の幼少期と娘たちとを比べてみたりしている。やっぱり、そのほとんどが、子どもの頃の何気ない1日の何気ないシーンで、でも強く印象に残っているから何度も思い出すのだと思う。


 私には2人の兄がいる。兄たちは年子で、2番目の兄と私は2学年離れている。小さな頃から、兄たちはいつも一緒にいて、私はその後をついていくものの、いつも全く相手にされずに邪険にされていた。それでも、兄たちが好きで煙たがられても、意地悪されてもついて回っていた。 

そんな兄たちが小学校に入学する日の記憶。しかも、上の兄の入学式、2番目の兄の入学式、どちらもその日の朝のことを覚えている。当時、私はまだ幼稚園には通っておらず、おそらく一日中母と二つ下の妹と過ごしていたはず。そんな日常だったのが、突然母は私と妹を父方の祖父母の家に預けて、兄の入学式出席のために2人で出かけて行ってしまい、私はショックを受けてしまった。

父方の祖父母の家は自営業で金物店を営んでおり、父はその3代目で後をついでいた。そのお店が私の家からワンブロック離れたところにあるのだけど、お店の出入り口前の道路から続く坂道を下り、少し行ったところに小学校のグラウンドが見える。道路とか坂道と言っても、田舎町の道路なので、車道と歩道があっても、車がほとんど通らないので、町の人たちはたまに通る車がいない時は車道を歩いていることの方が多かった。入学式の朝、正装した母と兄がその坂道を下っていく後ろ姿を追いかけて泣き叫んでいる私。もちろん、ついていくことは出来ず、お店の前で父に抱き抱えられながら泣き続けていた。そのうち、泣きじゃっくりに変わり、泣き止みたくても止まらなくなってしまった。あまりにも私が泣くものだから、その時父が手に負えなくなって、私に「うるさい!」と言ってお尻か頬かどこかは覚えていないけれど、どこかを叩かれた記憶がある。その時に私が父に言ったのは「泣きたくないのに、泣いちゃう」つまりは、泣きじゃっくりのせい。父は、「そうか」と叩いたことを少し申し訳なさそうに言った。

二つ下の妹はおそらく、家の中で祖母と一緒にいたのかもしれないけれど、その日のシーンで妹は出てこない。

2番目の兄の入学式の日も同じように、母と兄がその坂道を降る姿を見て同じように泣いたことも覚えている。でも、父に抱き抱えられた日がどちらの兄の入学式だったかは覚えていない。


この日のことで、印象に残っているのは、私が父に抱き上げられたシーン。
実は、私の記憶で、後にも先にも父に抱っこしてもらったのはこの入学式の日しかないのだ。4歳か5歳になる年のことなので、今の長女くらいの年齢の頃の記憶なのだけど、私と夫は今でも出来るだけ長女を抱きしめてあげたり、夫は抱っこしてとせがまれれば抱っこしてあげるようにしている(私は産後ということもあり、節々が弱っているのでできない)。それに比べると、親に抱きしめてもらったり、抱っこしてもらったという記憶があまりにも少なくて自分の幼少期を客観的に見ても可愛そうだと思えてくる。時代がそうだったのか、そして、兄弟が多いこともあったからなのか、それは分からないし、今更親にも聞けない。でも、やっぱり、うるさいと怒られたとしても、父が抱っこしてくれたその状態はすごく安心感があったことをは覚えているから、育児書なんかにも書いているように、子どもを抱きしめてあげることはすごく大切なんだと幼少期を振り返って、改めてそう感じている。私はいつでも娘たちを抱きしめるように意識していて、怒らざるを得ない時でも、必ず最後はハグして仲直り。娘にとってはママとパパが抱きしめてくれることは特別なことだと感じてはいないだろうけど、私にとっては幼い頃にほとんど体験出来なかったことだから。

こうやって、幼少期を振り返ると、どうしても、親の粗探しのようになってしまうのだけど、それが反面教師となって、自分の子育てに活かされているのは間違いない。もっと親にこうして欲しかった、こうだったら良かったのに、思うことはまだまだ山のようにある。それを親に伝えたところで、もう幼少期には戻れないし、悲しませてしまうだけだから、それは自分の中に留めておきたい。

余談だけど、特に父親とは物心ついた頃から衝突し続けてきた。父はそれは今となってはいい思い出で、本気でぶつかり合えたことが幸せだったという。申し訳ないけれど、私はそうは思っていなくて、今でも父のことを理解できずに悩むことがある。父とぶつかると、終わりが見えない言い合いになりかねないので、大人になってからは、そうなる前に譲歩してしまう。もちろん、私は後味が悪く、消化不良でもやもやとする。今は、韓国という外国から子供を連れて実家に帰るため、絶対に父とは言い合いをしたくないから、滞在中も出来るだけ父の話と生活習慣に合わせながら過ごすようにしている。実家なのに、なんだか居心地がイマイチで、以前は2週間くらいの日程で帰国していたのが、最近は長くても10日程度の滞在に自然となってきている。しかも、その滞在中、妹が居心地の悪さを察してくれ、家に泊まらせてくれる(旦那さんと、男の子2人+柴犬) から実家の滞在は正味1週間弱。
父との衝突はなくなったけど、同時に父との距離もどんどん遠くなっているような感じがする。だからといって、今更何を話そうか、話始めるとまた衝突するかもしれないと思うから結局は今の状態を維持しようとしてしまう。寂しいといえば寂しい。

コロナウィルスの感染拡大のせいで、日韓の飛行機も大阪と東京にしか飛ばなくなった。実家はそのどちらでもない北海道だから、今両親に何かあったとしても、簡単に飛んでいけない状況で、もしも、そうなったら、きっと今の父との心の距離を悔やむことになるだろう。近くても外国であることを改めて痛感した。今まで、両親とは(特に父とは)色々とぶつかることも理解し合えないことも多かったけれど、両親は大切な存在であることには変わらないから、安心して帰国できる状況になったら、まっ先に実家に飛んでいきたい。そして、両親を敬いながら一緒に過ごす時間を大切に楽しいものにしたいと思う。





# by sarahnok23 | 2020-04-26 22:45 | ★幼少期振り返り★ | Comments(0)

肩の荷が降りた話。

昨年末いっぱいで業務を一時終了させて産休に入ってから早くも4ヶ月が経とうとしている。この4ヶ月、私や家族も、そして世の中も大きく変わった。私は第二子を出産し2人の女の子のお母さんとなり、世の中はコロナウィルスという見えない脅威に振り回され、今もなお収束の兆しが見えない不安な状況にある。

産休に入る前は、産後の回復が順調なら、ちょうどゴールデンウィークあたりに日本に一時帰国して、6月から仕事復帰しようと考えていた。しかし、5月が誕生日な私の日本の運転免許証の更新と日本の家族に次女をお披露目する予定でいたのに、コロナウィルスのせいで日本への一時帰国はしばらく難しくなってしまった。

そろそろ現状の報告も含めて、今後について会社と相談するために部長に連絡をしなければいけないと分かっていながらも、どのタイミングでどのような内容でメールを送ろうか頭を悩ませていた。日本で緊急事態宣言が出され、大きな打撃を受けていることが予想される部署もあるため、今連絡をすることが果たして正しいのか、空気の読めないタイミングなのではないかとあれこれ考えすぎてなかなかメール一本を送れずにいた。というのも、私の仕事は業務パフォーマンスの向上には役立つものの、それが直接会社の利益になるというものではないため、私が考えても、差し迫って必要な業務ではないことはわかる。そして、一昨年、突然他界してしまった、私を再び会社の業務に携わる機会をくれた前社長は人との縁を大事にする人だったので、それを引き継いでいる現在も社員(私は受託契約)を切ったりするようなことはしないことも分かっていた。だから余計に私が今連絡をすることで部長を困らせてしまうのではないかと心配になってしまったのだ。 

でも、よくよく考えると、私の契約形態は社員ではなく、受託契約で1ヶ月定額の報酬が日本円で日本の口座に振り込まれるフリーランスのようなもので、税金の支払いや確定申告は自分で行う必要があるのだけど、私は現住所が日本にないため、所得税などの支払いの義務が発生しないことを確認している(管轄の税務署に詳細などを伝えた上で確認済み)。報酬の支払いは、1ヶ月のうちに全く仕事をしなければ報酬は0円。1日でも稼働し月末に報告書を提出すれば○万円(定額)。また、例えば、来月1ヶ月は自己都合で業務に当たれないので休む、となればその月の報酬が支払われないだけの至ってシンプルな契約形態であるため、私が業務に復帰したり、再び休むことで発生する会社側の事務手続きはさほど複雑ではない。つまり、言ってしまえば、私は維持費不要でキープできる都合の良い人材でもあるのだ。

そういうわけで、私の中だけで、あれこれ考えても前に進まないので、思い切って部長に現状の報告と今後の見通しを含めて報告のメールを送った。昨日のことである。
自分は業務に6月から業務復帰でそうな見通してはあるけど、会社の状況や私の行っている業務の差し迫っての必要性の有無もあるため、すぐに業務を始めたいということではなく、6月以降いつでも復帰できるよう準備をしておき、会社の状況に合わせて必要となる時まで待機している考えであることをメールで伝えた。
その返信は、現在の会社の詳しい様子とともに、やはり、原時点ではまだ見通しが立たないため、もう少し状況が見えてきてから決定したいという内容のものだった。再び業務に復帰してほしいという点は変わらないが、コロナウィルスによる会社の今後と、現在所属している社員の健康と生活を守ることが最優先であるため、申し訳ないと謝罪の言葉と同時に、私の気遣いに対する感謝の意まで書かれていた。そんな言葉なくてもいいのに。
私としては、この仕事はもちろん大切にしているけれど、それ以上に、前社長の信念や仕事に対する姿勢を心から尊敬しており、その社長から声をかけていただくという縁あっての今。もちろん、報酬という対価があっての業務ではあるけれど、それ以上に、社長が全てを注いで育てた会社の力に微力でもなりたいという気持ちの方が強い。
そして、ありがたい事に、韓国では住む家もあり、食べるものにも困らず家族皆が健康に過ごすことができている。今はそれだけで充分。

自粛生活が続いており、平日は2人の娘と一日中一緒にいる。
以前であれば、全く1人の時間が取れない上に、赤ちゃんと4歳児を相手に毎日を過ごすとなれば心が持たなかったかもしれない。ある意味、社長がくれたこの仕事と育児の両立で心のバランスを保っていた部分もあったのだけど、健康あってこそだと改めて気づくきっかけとなったコロナウィルの脅威で、今は子どもたちと過ごす時間が何よりも大切で尊い。 仕事復帰はいつになるかはわからないけれど、今はそれでいいと思っている。むしろ、部長からの返信で、しばらく仕事をせずに子どもたちと過ごせる事になって、ちょっとほっとしたと同時に、肩の荷が降りたような気分なのだ。
特に、次女が生まれて、長女の時にはなかった育児に対する心の余裕を持てているおかげで、心から赤ちゃんが可愛い。コロナウィルスが流行して良かったなんて微塵も思っていないけれど、とにかく、今は子どもたちとの時間を大切にし、特に次女の赤ちゃん時代の成長をこの目に焼き付けながら過ごしていきたい。


********************

 赤ちゃん返りはないけれど、きっと、たくさん我慢している長女。妹にはほとんど近づかず、興味がないような素振りを見せていたけれど、私が見ていないときにそっと近づいて、優しい声を掛けていた。
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# by sarahnok23 | 2020-04-24 00:21 | ★仕事・学び★ | Comments(0)