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韓国生活 nyuju23.exblog.jp

韓国での生活、育児、仕事などの日常


by sarahnok23
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祖母と父のこと。

父からの連絡で、明け方、祖母が息を引き取ったことを知らされた。
享年93歳。老衰とのこと。

祖母が父の血のつながった母親ではないことを知ったのは私が中学生の時。
祖父が亡くなった時に、母が兄弟の中で私にだけこっそりと話してくれた。

田舎町ではあるものの、その町の名家の長男として生まれた父は、生まれた時から父はおばあちゃん子で、その祖母(私には曽祖母)に次期の後継になることを刷り込まれて育ったらしい。家は戦前から金物店を営んでおり、それ以外にも祖父はいくつもの事業に携わっていた。地元の建設会社の社長、私が通っていた保育園の園長(出資者としての名前だけ)、札幌でのホテル経営など様々な事業で手腕を振るわせていたという。 裕福な家庭で育ち、何一つ不自由なく育ち、おばあちゃんに子どもの頃から言われた通り跡を継ぐ物だと思っていた父。しかし、ある出来事がきっかけになり、父は田舎街を飛び出すことになった。

父が18になる年、何かの手続きで戸籍謄本が必要になった。そこで父が目にしたのは、両親であると18年間信じて疑わなかった人が、実は実の親ではないということ。父は、わずか3歳の時に祖父母の養子になったのだ。祖父はこの家での次男で、父は長男の息子だった。実の父親は兵役中に患った病のせいで、30代でこの世を去った。もちろん、父は覚えていない。父には姉もいたけれど、実の母親と姉は、父親が亡くなってからすぐに町を去った。残された父は、スライド式で後継者となった次男である叔父の養子になった。叔父夫妻には子供はなかった。 そういうわけで、昨日亡くなった祖母と父は血のつながった親子ではないいうわけだ。

大学進学をきっかけに、地元をとびだし、東京に出てきた父はそこで母と出会った。兄たちから私まではそこで生まれ、父は安定した職についたのに、大好きだったおばあちゃんの、後継は自分だという言葉が頭から離れなかったという。だから、そろそろ地元に戻って家業を継ぐべきではないかと考え直した父は、意を決して母と幼い子供3人を連れて地元に戻ったのだ。でも、すでに曽祖母はこの世を去っており、父の帰りを歓迎する人はなく、待っていたのは親戚たちからの冷たい目だった。

ビジネスセンスのあった祖父は複数の事業で財を成した。ドラマのようなはなしで、お金のあるところに人は寄ってくるとは言ったもので、祖父の弟たち(父の叔父たち)はその経済力をあてにして、それぞれが住んでいる別の町で同じように金物店を営むための資金をすべて祖父が出した。祖父が亡くなってから、戸籍上、財産贈与を受けるのは祖母と私の父ではあったが、父が養子であるという理由から、その財産をあてにしてきた叔父たちから信じられないようなことを言われたという。地元に戻ってから、父は祖父母の財産など一切あてにしておらず、ただただ賢明に家業に専念した。何かあった時に、経済的な助けを求めにやってくる叔父たちとは違い、父は祖父母の店からの月給で私たちを食べさせてくれていた。それでも、祖父は亡くなる前までは、実の父親ではないにしても、血のつながりはあるからか、祖父は祖父なりの形で私たちと関わってくれた。それは、野球が得意だった兄たちの応援だったり、誕生日は忘れずにいてくれたことだったり。おじいちゃんとしては不器用だったし、世間一般のお爺ちゃんとは程遠い、笑顔をあまり見せない威厳のある人でもあったけど、私は祖父が好きだった。そんの祖父母の誕生日には必ずケーキを焼いて持っていっていた。病が発覚して初めて外泊を許可されて家に戻ってきた時に、筆談で(祖父は咽頭がんだったので話せなくなっていた)元気になって私の焼いたケーキを食べたいと言ってくれたことは今でも忘れない。(大しておいしいケーキでもなかったのに)

話は戻って、祖父が亡くなり、遺産分与の話に親戚たちとなったとき(そもそも、叔父たちがその話に入ってくるのはお門違いではないかと私は今となっては思うのだけど)、父は息子でありながらも、お金のことにはノータッチだったため、祖父の財産については何も知らなかった。一体どのくらいあるのかと祖母に問いかけた時に、そこにいた叔父たちが、父をまるでお金欲しさにその質問をしたかのように問い詰めてきたという。 父はそれ以上何もいわず、この話を終わらせた。それからしばらくして、祖母からとある書類を突然渡され、署名捺印をして提出してくるように言われた。その書類は、財産放棄の書類だった。 ここで、何かが吹っ切れ、もう、ただの従業員と雇主の関係と割り切ることにした父。

それから、数年のうちに叔父たちは次々に病にかかり、亡くなった。血の繋がりのない叔母たちをのぞいて、残されたのは祖母と父のみとなった。そんな頃、高齢になってきた祖母が痴呆症ではないかと疑うようになる。そのきっかけは、80代になってもお店の経理をしていた祖母があり得ないようなミスだらけの書類を商工会議所に提出するようになったこと、痴呆症の典型的な症状である鍋を焦がすことがあったから。父と母は、祖母にまだ判断力があるうちに説得して、店の権限などを法律上の息子である父に変更してもらった。その時、既にかつての財力なんて残っていなくて、店を畳んで解体し、不動産を整理し、後々、祖母を見てもらう介護施設の費用を賄える程度しか残っていなかった。 店を片付けるときには、たくさんの借用書も出てきたという。人の良い祖父は知人にお金を貸したりもしていた。結局、返ってくる事はなかったようなのだけど、父は、借金を残していなかっただけ良かったと今でも笑いながらいう。

父が店の権利の変更を祖母にお願いする際に、どう考えても、祖母を最後までケアできるのは自分しかいない。親戚なんて当てにならないし、当てにする必要もない。そう言って書類にサインをしてもらったらしい。


祖父の残したお店や土地、その他諸々を整理し始め、祖母を札幌の施設に入れ、両親も移住するまでに約5年もかかったという。私は高校を卒業してから親元を離れていたし、両親がその作業をしていた頃は、さらに遠い東京で働いていたから、何も知らなかった。というか、何も知らされなかった。2人の苦労は計り知れなくて、やっと札幌に落ち着いてからは、年金暮らしになり、時々施設にいる祖母の様子を見に行きながら老後を過ごしていた。近くには、一番上の兄や妹もいるから、私は韓国にいても安心していられる。祖母の痴呆症は徐々に進行していき、随分前から面会に行っても、誰の顔も認識できないほどになっていた。そんな祖母の訃報を父からの連絡で知って、私なりにいろんな思いが込み上げてきた。

私にとっては祖母は祖母で、嫌な思いをしたこもないし、家に行けばそれなりに歓迎してくれた。祖父同様、祖母なりの愛情を注いでくれたのではないかと私は思っている。

父にとっては、幼少期から今に至るまでの諸々があるから、私には理解できない部分が多いから、何もいえないけれど、きっと、これで全て終わって肩の荷が降りたと感じていると同時に、これで良かったのだろうかと今も自問自答しているんじゃないかと推測する。

祖母が、財産放棄の書類を父に書かせたのも、きっと、実の子どものいない祖母が叔父たちに言われてそうせざるを得なかったのかもしれない。本当は、父のことを実の息子のように思っていたけれど、昔から感情表現が豊かではない祖母はそれを父に伝えることが最後まで出来なかったのだと私はそう思うし、父にもそうだと思って欲しい。

父が、難しい性格で、私を含めた兄弟たちと度々ぶつかってしまうのも、父の人生で経験してきたことが関係していることは、私もわかっている。変えることはできないし、それが父なのだ。 私は、父とぶつかることを避けながら、当たり障りなく接するようになってしまったけれど、今回の祖母の逝去で、やっぱり、父の寂しさや家族に対する強い憧れ、それをうまく表現できない性分、その全てをしっかり受け止めて、次にあったときには今までの苦労を労う言葉をかけたい。

父の経験してきたことは、私は話で聞いてきただけ。だから、どんなに偏屈な考え方をもった父であっても、それを否定したり私の意見を押し付けることはできないし、したくない。
自分も、常日頃から意識して気をつけていないと、この目で見たり経験していないことなのに、それらに対して否定的になってしまうことがある。それは、人との関わりの中で、されたら一番嫌なことで、そういう人には嫌悪感も覚えてしまうから、やっぱり自分をまずは正すべきなんだろうな。

まだまだ、器の小さい40歳。



おばあちゃん、今までありがとう。
天国でおじいちゃんと会えるかな?
血の繋がりはなかったけど、私にはおばあちゃんは、おばあちゃんでした。


支離滅裂、誤字脱字が多いかも。

by sarahnok23 | 2020-05-14 10:44 | Comments(0)